桜の花が怖い

 

ちょうどこの時期に、昨年の春に下書きに保存していた文章を見つけたから、少し書き換えて完成させたのをブログとして公開しようと思う。

 

桜の花が咲く少し前の季節は、いつも桜の花が咲くのが怖くて怖くてたまらなかった。

頭の中に桜の木を思い浮かべる。何もない暗闇の中に満開の桜の木が立っているイメージ。その桜の木にむかって歩いて近づいていくと、だんだん、花という花がこちらを見つめて返してくるような気がしてくる。おかしいと思って、目を凝らしてみると、花だと思っていたのは実は数千もの目で、私は思わずアッと叫んでその場から逃げ出してしまいたくなる。

 

春は新しい季節の始まりで気持ちが高まる反面、気分が落ち込み憂鬱になりやすいともいうから、その気の落ち込みが重なっているだけなのかもしれない。大学に通っていた頃、向かう坂の途中には、桜の並木があって、毎年、光の中に舞う花びらを見ては「綺麗だな」と思っていたし、ビニールシートをひいて、友人とお花見をしたこともあった。その時に見た桜はごく平凡なものだったし、恐怖とかそういうものには結びつかなかった。

 

桜が怖くなるきっかけは、 梶井基次郎の「櫻の樹の下には」を読んだせいかもしれない。

 桜の樹の下には屍体したいが埋まっている!
 これは信じていいことなんだよ。何故なぜって、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。

梶井基次郎 桜の樹の下には

 

皆が信じて疑わない完璧な桜の美しさに難癖をつけたこの小説は、相当衝撃的で、これを読んだ人は、皆、桜の美しさに疑問を抱かざるをえなくなるんじゃないかと思った。

 

この「櫻の樹の下には」を読んだあとの最初の春、3月の終わりに。いまにも雨が降り出しそうな暗い日に近所の神社に桜を見に行った。桜の木が植えられていて、春は見事になるはずだから。正面の道路に面した入口からではなく小さな路地に面する裏口から神社に入った。じゃりじゃり、と玉砂利を踏んで進んだ先の小さな神社の境内には、誰も居なくて、時が止まったかのようにしんとしていて、雨以外に動くものも聞こえる音もなかった。小さな神社は満開の桜の花で埋め尽くされていた。

淡いピンクをした無邪気な桜が、暗い曇り空の下では、血の気を失った死者のように蒼白な花に見えた。

神社に行く数日前の夜にも、別のところで桜の花を見た。その時の桜は、街灯と月明りに照らされて、綺麗だったが、夜だからかなんだか、少しだけ胸騒ぎがした。その時感じた胸騒ぎというか予感が、神社の桜を見た時、急にはじけ飛んだように思えた。私は異界に迷い込んでしまったのだと思わざるを得ないくらい、不気味だった。

さっき梶井基次郎の話をしたけれど、桜を不気味に描いた小説がもうひとつあった。梶井基次郎のほうがなんとなく好きだけれど、神社の桜の木の下に立った時、陥った不思議な感覚は、坂口安吾桜の森の満開の下」が近いかもしれないなと思った。

 

この不気味な桜の花を見た春は、大切な人を失うような嫌なことがあった(死んだわけではない)。目に焼き付いて離れない不気味な桜の花と、嫌な思い出が重なって、フラッシュバックするのだろうと思う。春はいつもその思い出が虫のように蠢いて湧き出てきて不快だった。

けど、今年桜を見に出かけても、嫌な気持ちがしなかった。その思い出がもう薄れつつあるからかもしれない。

 

 

檸檬 (角川文庫)

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桜の森の満開の下・白痴 他十二篇 (岩波文庫)

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